ぼんやりのんびり日記

ただの日常を綴ります

犬は、笑う。

先日 読んだ、糸井重里氏の「今日のダーリン」が、とても良かった。
とっても、じんわり、良かった。

 

" 4月6日の「今日のダーリン」

・信仰と科学のちょうどいいバランスのなかに、じぶんの物語が落ち着けたらいいのになぁと思う。
犬と暮らしているそれなりに多くの人が、「犬がしゃべった」と言う。
うちにいたブイヨンは「かなちゃん」と言った。じょうずにではないが、家人の名を親しく呼んだ。
ぼくらの物語のなかでは、なんの問題もないことである。それは信じるということの次元にあるからだ。
たしかに言ったとか、そう聞こえたとか、煎じつめてもどうでもいいことで、犬は「かなちゃん」と言ったのだ。
しかし、同じ人間が、つまりぼくが、「犬はしゃべらない」ということを知っている。しかも人間のことばをしゃべるということはありえない。
これは科学であり、先人たちの労苦の末に得た知見だ。「犬が笑った」ということについても、同様である。

大吉のおみくじを引いて、悪い気はしない。しかし、そのおみくじが、どういうところでどういう人によって作製されているのか、ということなどを知らないわけでもない。
飛行機に乗って旅をするときに、少しだけだけれど、「もしかしたら落ちる」ということを意識している。
自動車に乗っていて事故に遭う確率のほうが、ずうっと高いということも知っているくせに。 
ぼくの、ぼくなりの物語というのは、まるまるぜんぶが科学でできてるわけじゃないし、こころの信じることだけでできているわけでもない。

 

吉本隆明さんが、昔、こんなことを言ってた。「頭がすっきりするのはマルクスなんだけど、気持ちがいいなぁと思うのはエックハルトですねぇ」と。
それを聞いた日に、さっそく、なんだか知らないままに『エックハルト説教集』という文庫本を買ったのだけれど、そのままになっていた。いまごろだけど、読んでみようかなと思う。

 

つまりその、犬はしゃべるし、犬はしゃべらない。
ぼくらは、そのあやしげな釣り合いのなかに生きている。そして、そのバランスは他人とちょっとずつちがうのだ。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。 スキだとかキライだとかも、信じていることのひとつだね。"

 

…私の、いわゆる「じぶんの物語」で言えば、エビデンス(=科学的根拠。)は医学の根幹。これに基づいてる。
でもこれにも限界はある。できないこともある。
東洋医学代替医療は「なんだかわからないけど、効いちゃう。」
信仰、とは違うけど あやしげ。
私が大好きなフラワーレメディーも、はっきり言って知らない人から見たら、
あやしげ。
たぶん、こういうの毛嫌いする人は
「めっちゃあやしげ」なものにしか、見えないだろう。
だけど病気はメスとか薬である程度治せても、心の問題は メスでは、無理なことだ。(薬は効くけどね、ある程度。)

フラワーレメディーは御守りみたいなもの。あると安心するもの。
そして飲んでいるうちに、なんとなく気になってたことが気にならなくなっている自分に気づくのだ。

 

御守り、って、神様を信じない人でも家に神社のお札が家の柱とかに貼ってあったり、御守り、一個くらいは自分でも持ってたりする。カバンにつけたりして。
お正月になれば初詣にだって行くだろう。信じてないかもだけどなんとなく、ほとんどの人が、やってる。

なんとなく、「信じるということの次元にあるから」なことと、科学的なことは
あいまいかもしれないけど バランス良く成り立っているんだ、と私は思ってる。

f:id:yukimado367:20180414100221j:image